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ヘーゲル哲学『国家論』(1770年~1831年)
(成長する共同体「人倫の弁証法」)
ヘーゲルは、「真の自由が実現される場としての人倫」
について論じている。
人倫は1.家族2.市民社会3.国家の3段階で展開するという。
1.家族
人は共同体をつくる動物で、共同体の中で
最も基本となるのが家族。
もっとも基本的な人間共同体という意味で、
ヘーゲルは家族のことを「自然的人倫」とも呼んでいる。
家族を結び付ける原理は「愛」。
「愛」によって家族は結合している。
しかし、家族において個人の自由は完成するかというと、
残念ながらそうはいかない。
なぜかというと、家族においては個人の独立性がないから。
特に、子どもは家族において親に決定的に依存している。
自立のないところに自由はない。
子はいずれ巣立ち、家族は解体されていく運命にある。
2.市民社会
家族が解体された後に浮かび上がってくる第二の人倫が、
市民社会。
市民社会とは、人々はみな自由かつ平等であり、
互いの権利が承認されているような社会。
そこでは、人々が自由に自らの欲望を追求することが
できる。人々は他者の権利を侵害しない限り、
基本的に何をやってもよい。これは要するに、
自分の利益の最大化を目指して行動することが
許されている社会である資本主義社会に他ならない。
(市民社会とは資本主義社会のこと。)
人々が自由に欲望を追求する社会という意味で、
市民社会のことを「欲望の体系」とヘーゲルは言う。
しかし、「欲望の体系」たる市民社会において
「正しさ」は完成するのか。
(参考)「正しさ」とは、人々はみな自由かつ平等であり、
互いの権利が承認されていること。
答えはノーである。なぜなら、ここにおいては人々の
絆が失われてしまっているから。
市民社会においては、家族愛と同等の同胞愛は
ないと考えてよい。
市民社会では、個人の独立が保障されている反面、
濃密な絆も連帯の意識も希薄になってしまっている。
要するに、資本主義社会は弱肉強食の冷たい社会だと
いうことである。
このように絆が失われてしまっている社会を、
ヘーゲルは「人倫喪失態」とも呼んでいる。
3.国家
人倫の最終段階として登場するのが国家である。
家族においては、人々は強く深く結びついているが、
個人の独立性は欠いていた。
これに対して、市民社会においては個人の独立性は
実現している。ところが、ここでは人々の連帯感は
深刻な危機にさらされている。
そこで、国家が「家族」と「市民社会」のそれぞれの
優れた側面を統一すべく登場。
国家において、「家族における絆の深さ」と
「市民社会における個の独立性」が統一される。
一人ひとりの自由が保障され、なおかつ国民としての
一体感のある国家を目指した。
以上が、ヘーゲルの国家論である。
人倫の「弁証法」を図式化すると、
家 族
(対立)⇅→止揚(アウフヘーベン)
市民社会
→国家(個人の自由+国民としての一体感)