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ヘーゲル哲学『自由論』(1770年~1831年)
ヘーゲルは、カントを先駆者とするドイツ観念論の
大成者であると同時に、間違いなく西洋近代哲学を
極点にまで引き上げた哲学者である。
その影響力は圧倒的で、ヘーゲル哲学をいかに乗り越えるか
というのが19世紀以後の西洋哲学の課題であった。
今回は、ヘーゲルの代表作である『自由論』
について見ていく。ヘーゲルはカントの自由論について
意見することから自身の自由論を展開している。
カントの自由論というのは、
「自ら律することができるときに、人は自由になれる。」
というもの。
これに対して、「こうした自由はしょせん個人的な
自由に過ぎない。真の自由は、単に個人の心の内面で
成立しているものではなく、共同体において具現化される
べきものである。」とヘーゲルは主張する。
なぜ、ここで「共同体」が出てくるのかというと、それは、
一人では真の自由を実現することができないから。
人は本来、他者とともに生きることを望む存在である。
これはかつて、アリストテレスが
「人間はポリス的(社会的)動物である。」という
言葉において言いたかった事柄にほかならない。
他者とともに共同体をつくり、そこにおいて喜びや
悲しみを分かち合いつつ生きる。
これが人間の本来の姿なのである。
当然のことながら、社会生活の中では様々な摩擦や
軋轢が生まれる。でも、それを乗り越えて生きる中で、
人は本当に心からの喜びを獲得できる。
「こうした時に人は自由に到達できるのだ。」
とヘーゲルはいう。
では、いかなる共同体において真の自由は実現できるのか。
これを主題的に論じたのが『法の哲学』という
彼の著作である。『法の哲学』という著書名を聞くと、
誰もが法律についての哲学的考案だと思うであろう。
だが、ここでいう「法」は、「正しさ」について
根源的な考察を加えたものである。
そして、この「正しさ」を「人倫」という言葉に
置き換えて、説明を続けていくのである。
(補説)人倫とは、「よさ」を実現する社会制度と
している。人倫を道徳とはっきり区別している。
道徳が内面的な心の「よさ」を表すのに対し、
「人倫」はそうした「よさ」を現実化するための客観的な
社会制度のことを指す。
道徳(人間を、内から規律)+法(人間を、外から規律)
⇒人倫(「よさ」を実現する社会制度。法と道徳を
統一した客観的な自由)
道徳はわたくしにおいて成立する内面的な心の「よさ」。
これは、自由を「自律」として把握したカントの
立場である。しかし、わたしの主観的自由は、
低次な自由に過ぎないと考えた。
共同体に生きる私たちは、他者との豊かな関係なしには
生きられない。そこで求められるのが「法」である。
ここでいう「法」は、人間を外から縛るもののことで、
内から縛る「道徳」と区別される。
人が道徳的に生きる、つまり「内なる声」に従って
生きるのは大切なことだが、「内なる声」の内容は
人によって違う。
例えば、テロリストからみると、人をあやめることが
彼らの道徳観となる。だが、客観的に見れば、
これは明らかに間違ったことである。
だから、道徳だけでは、本当の「正しさ」は実現しない。
社会における「正しさ」を実現するためには、
人々を共通のルールによって拘束する「法」が欠かせない。
こうしたことから、法と道徳は、人間を外的に縛るか、
内的に縛るかという点で、全く方向性が異なっている。
つまり、矛盾している。
しかし、ヘーゲルの見地では、この2つは決して
二者択一のものではなく、統一されなくてはならない。
このような矛盾を統一することを止揚(アウフヘーベン)
といい、矛盾の統一による発展こそが、ヘーゲル哲学の
キーワードとなる「弁証法」にほかならない。