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幸田露伴『努力論』
著者紹介:幸田露伴(1867年~1947年)小説家。第1回文化勲章受章。
代表作品「五重塔」「運命」など多数。
娘 幸田 文 随筆家・小説家
今回は、人生哲学書『努力論』について見ていく。
特に、3つの代表的なテーマを取り上げていく。
3つのテーマは次の通りである。
「自己実現を果たすための物の見方・考え方」
「豊かな富を育てる方法」
「学ぶ者のための上達の極意」
≪自己実現を果たすための物の見方・考え方≫
「失敗と成功」「自力と他力、自己革新と志」の2つに分けて説明する。
「失敗と成功」について。
この世の中は、成功者と失敗者に色分けされる。では、何が成功者と失敗者を分けているのだろうか。
露伴は、成功者と失敗者の特徴を次の通り述べている。
「成功者と言われる人は、自分の意志・知略・勤勉や仁徳の力によって
好結果を納める。一方、失敗者は自分は何も悪くないが、運命が悪かったため失敗してしまったと嘆く。」
成功者は自分の力として運命を解釈し、失敗者は運命の力として自己を解釈する。
成功者は、失敗を人のせいにするのではなく、自分のせいにするという傾向が強い。何か失敗したとしても、人のせいにするよりは「自分がこうしたならば」と考える。失敗したことをどのように捉え、考えるか。その時の姿勢が成功者をつくり、また失敗者をもつくるのである。
「自己と他力、自己革新と志」について
人間は自己革新を続けながら進歩していくものであるが、この自己革新の方法は2つある。
「自己による自己革新」と「他力による自己革新」である。
一般に自己革新というと、自力で行こうとだけ考えがちだが、他力による自己革新もあると言う。
そこで、先に「他力による自己革新」から見ていく。この革新を成し遂げるには、「まず、良き師を認め、その師に打ち込むこと。」が必要である。
「何より先に自己を他力に没却する。」
自分自身のこだわりを捨てて、信じられるものすべてに身を任せてみることによって、変わっていくのである。
一方、自力による自己革新はどうか。これには大変な努力が必要とされる。
学問を例にして言うと、露伴は、王陽明の「学問を成すには、まず志を立てることが一番である。」という言葉を取り上げている。
「志が立たない学問は、根を植えないまま植物に肥やしをかけたり水をかけたりするようなものである。」そして、志を求める時は、「猫がねずみを狙うが如く、鶏が卵を抱くが如く。」と、志から気を散らさないようにしなければならない。そうすれば、他の誘惑が心に入る隙間はない。
志以外のものは見ず、志以外のものは聞かず、ただ志に集中することが大切なのである。「志は自分の精神の主人公である。」
≪豊かな富を育てる方法≫
露伴は、富を身に付けるための3つの道について述べている。
「惜福」「分福」「植福」である。
「惜福」とは、福を使い尽くさずにおくという心構えのことを言う。
正当なこと以外には無駄遣いしないことである。
福を惜しむことによって福が尽きず、福が尽きないうちに新しい福に出逢って、それを上手に取り入れる。
「惜福」の工夫のあった代表的な人物として、
徳川家康・三井家・住友家などが挙げられる。
「分福」とは、自分の得た富を他人に分け与えること、そして一緒にその味を楽しむことである。
自分から富みを分け与えれば、人もまた自分に福を返してくれるものである。人の上に立つ人物には必ず、分福の心得がある。
「分福」の工夫のあった代表的な人物として、
平清盛・足利尊氏・豊臣秀吉などが挙げられる。
「植福」とは、自分の力・情・智をもって人の世に幸福をもたらす物質・情趣・知識を提供することである。
自己の福を植えることと同時に、社会の富をも植えることである。
この植福の精神作業は、世界を進歩発展させる原動力となる。
以上、「惜福」とは、自分に廻ってきた福を大切にすることであり、
「分福」とは、これを分けることである。ところが、「植福」は福をつくることで、2重の意義がある。それは、「自己の富を植える」ことと「社会の富を植える」ことである。福を自分のもとに留め置くのではなく、社会全体の福とすることが「植福」の意義である。文明の進歩のもとには、植福の精神、作業がある。
≪学ぶ者のための上達の極意≫
「目標のない学問は何も生み出さない。ゆえに、教育には目標を掲げることが重要である。」と露伴は述べている。
では、学を修めようと思った場合、どのような目標を掲げればよいのであろうか。
露伴は、「生」「大」「精」「深」の4つの目標を挙げた。(=修学目標)
「生」とは、横道にそれたり偏ったりしないことである。
学ぶには順番がある。あらゆる学問において最初に学ぶべきものがある。
例えば、東洋思想を学ぼうとするならば、まず、四書五経から始める。
学問には正道というものがある。
「大」とは、出来るだけ広い世界に目を向けて、知識を広め、能力を開拓し、自らの器を大きくするように努めること。
今、学問の世界は細分化され、専門化が進んでいる。しかし、専門化が進めば進むほど、こうした「大」を志す気迫のある人が求められる。
「精」とは、精密であること。自然科学の発達は、精密にものを見ることから起こったものである。
自然科学の方法をすべての学問にも取り入れていくとよい。
「深」とは、特定の範囲、専門分野を深く追求することである。
井戸は深く掘らなければ水は得られず、学問も深く修めなければ役に立たない。一つのことを深く突き詰めていくことで、やがては他の分野でもその能力が発揮されるようになる。(=汎化作用)
以上、「正」「大」「精」「深」をまとめると、
ただ大きいだけで深くなければ浅薄になる恐れがあり、
精密なだけで深さがなければ学問を押し進めることはできない。
正しいだけで深さがなければ学問の面白みは分からない。
つまり、「正・大・精」だけではだめなのであって、同時に「深」でなくてはならないのである。